オースティン7、シボレーM8D…マクラーレンを象徴する名車と50周年記念モデル

ブルース・マクラーレンのオースティン7




マクラーレンMP4/4
もともと彼はその一戦だけのピンチヒッターだった。だがそのレースは歴史に残るものとなった。ジャン-ルイ・シュレッサーは40歳を目前にした熟練のオールラウンダーで、体調不良のナイジェル・マンセルの代役としてウィリアムズに呼ばれ、1988年モンツァでのイタリアGPを走ることになった。この後スポーツカー世界選手権のチャンピオンになるフランス人は、何か目立った結果を残そうとしていたわけではなかった。もしも、最終ラップの一周前の出来事がなかったら、彼の出場は誰の記憶にも残らないものだったろう。だがトップを走っていたアイルトン・セナのマクラーレンMP4/4と彼のウィリアムズはシケインで接触、二台ともリタイアしてしまった。シュレッサーはセナの激しい怒りを買ったが、イタリアのファンからは賞賛を浴びた。なぜならこのアクシデントのおかげでフェラーリに1 -2フィニッシュが転がり込んだからである。エンツォが亡くなって間もなく開催されたこのイタリアGPは、マクラーレンが88年シーズンで勝利を逃した唯一のレースだった。

80年代に入って新たに組織されたマクラーレン・インターナショナルは、カーボンファイバー・シャシーを初採用したグランプリカー、MP4(後にMP4/1と呼ばれる)で注目を集めた。ジョン・バーナード設計のその車はコンパクトで空力性能も優秀、83年シーズンからはTAGポルシェのターボエンジンを搭載することになった。バーナードが全力を傾けた甲斐あってMP4/2は1984年に全16レース中12勝を挙げ、ニキ・ラウダに3度目のドライバーズ・タイトルをもたらし、その翌年は進化型のMP4/2Bに乗ったアラン・プロストがチャンピオンとなった。3年間にこのタイプが挙げた勝利は22勝、ポールポジション7度、16回のファステストタイムという目覚ましいもので、プロストは1986年に再びドライバーズ・タイトルを勝ち取った。

しかし、1987年にはその優位性は一気に消えた。FIAは88年に向けて燃料容量を150lに削減、ターボブーストも引き下げて自然吸気エンジン搭載車との性能差を一気に解消、さらに89年からはターボエンジン禁止を決めていたからだ。ただしホンダRA168EターボV6エンジンはパワフルなうえに燃費も良かった。そのうえMP4/4もパッケージングとエアロダイナミクスのレベルを数段階引き上げたマシンだった。誰がこの車をデザインしたかについては論議を呼んだ。スティーブ・ニコルズのアイディアであることは確かだが、ホンダを説き伏せて低く搭載できるV6エンジンを開発させたのはゴードン・マーレイである。

マクラーレンに新たに加入したアイルトン・セナはその道具を最大限活用し、13度のポールポジションを獲得する速さを見せて計8勝して88年のチャンピオンとなった。チームメイトのプロストは7勝で2番手、最終的にマクラーレンはコンストラクターズ・ポイントで2位に終わったフェラーリのほとんど3倍のポイントを稼いだのである。


マクラーレンはMP4/4で完膚なきまでライバルを打ち負かし、1988年シーズンを文字通り席巻した。ドライバーのセナとプロストはそれぞれ8勝と7勝を挙げ、ドライバーズ・チャンピオンシップで1位と2位。低い位置に搭載されたホンダV6ターボはこのシーズンだけのために開発された

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