オースティン7、シボレーM8D…マクラーレンを象徴する名車と50周年記念モデル

ブルース・マクラーレンのオースティン7




マクラーレン・シボレーM8D
マーク・ドナヒューが「カナディアン-アメリカン・チャレンジ(Can-Am)」に.ナイフ・ファイト・ルール.レースシリーズとあだ名を付けたことは有名だが、それはまた「ブルース&デニー・ショウ」とも呼ばれていた。1968年にM8がデビューする前から、マクラーレンとデニー・ハルムが圧倒的に強かったからである。

M6Aによってその前年もシリーズを席巻し、ブルース・マクラーレンがドライバーズ・タイトルを勝ち取ったマクラーレンはさらに手を緩めることなく、68年はハルムがチャンピオンに輝き、ジョー・マルカートが設計したM8Bを投入した1969年は、チームを率いるブルースが再びタイトルを手にした。彼らの強さは他を寄せ付けず、11勝のうちの8戦はパパイヤオレンジ・カラーのマクラーレンが1-2フィニッシュを遂げたほどだった。

M8Bの進化版であるM8Dは、新しいルールによって細長い支柱を持つリアウィングが禁止されたため、両サイドのテールフィンがリアデッキから8インチ(約10cm)の高さに取り付けられたリアウィングに空気を導くように作られていた。またエンジンとトランスミッションがシャシー・ストラクチャーの一部として応力を受ける構造だったことも特徴だ。何よりそのエンジンは、レイノルズ・アルミニウムの最新アルミニウム・シリコン合金ブロックを持つシボレーV8で、M8Dに積まれた7.6l V8は最終的に670bhpに.デチューン.されていた。

悲しいことに、このM8Dはブルース・マクラーレンが命を落とした車として知られているはずだ。それは1970年6月、Can-Amシリーズ開幕を2週間後に控えたグッドウッドでのテスト中の事故だった。ブルースの代わりにシートに座ったダン・ガーニーは、モスポートでの開幕戦でポールポジションを獲得、そのまま優勝を遂げるいっぽう、チームメイトのハルムも3位に入賞した。親友を失っただけでなく、同じ年のインディ500のプラクティスでのアクシデントで両手に酷い火傷を負っていたことを考えると、ハルムの奮闘ぶりは特筆すべきものだった。

ガーニーは2週間後のモン‐レンブランでも優勝、さらにもう一戦だけ出場した後、シートをピーター・ゲシンに譲った。ゲシンはエルクハート・レイクで優勝を飾ったが、それは優勝候補のハルムがプッシュスタートで失格したおかげでもあった。その年、抜群の強さを見せたハルムは出場した10戦中6勝を挙げ、シリーズチャンピオンに輝いた。結局、マクラーレンが勝利を逃したのは雨に祟られたロードアトランタの1戦だけ、そこではプライベート・ポルシェに乗るトニー・ディーンが予想外の勝利を挙げた。

翌1971年はジャッキー・スチュワートとローラがマクラーレン・チームの前に立ちはだかったが、依然として彼らの強さは揺るがず、ピーター・レブソンがハルムを抑えてチャンピオンの座を勝ち取った。最終的に1967年から71年にかけて、ワークス・マクラーレンは80%以上という驚異的な勝率を誇り、5年連続でドライバーズ・タイトルを獲得したのである。トップレベルのレースシリーズにおいて、これほど無敵を誇った例は空前絶後と言っていいほどである。


M8Dはジョー・マルカートのオリジナルデザインを進化させたマシーンで、フィンに取り付けられたリアウィング、エンジンとトランスミッションがストレスメンバーとなっている点が特徴。レイノルズ・アルミニウム製ブロックのシェビーV8は非常に強力だったために、レギュレーションに合わせて"デチューン"されている

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