アレックス・モールトンを偲ぶ|JACK Yamaguchi's AUTO SPEAK Vol.8

2001年。左からMGFハイドラガス、最後のミニADO15新ラバースプリング、ミニGMR135Dハイドラガス、MG1300ハイドロラスティック



自動車開発に転身
ロイ・フェデンは開発会社を設立。彼とブリストル期腹心の"三銃士"は、革新的な乗用車開発を開始した。イアン・ダンカン、ピーター・ウエア、アレックス・モールトンで、のちにゴードン・ウィルキンスがデザイン担当として加わる。

モールトンは、「全員、自動車開発の経験はないが、先端航空技術を体験し、いささか自信過剰であった」と反省した。空冷星型エンジンの最少気筒数は3気筒で、航空エンジンと同じスリーヴバルブ、すなわち吸排気ポートを開けた筒状バルブを上下運動させる方式を用いた。エンジンとトルコンはリアオーバーハングに搭載した。フロント・サスペンションはランチア、モーガン式のスライディングピラー、リアはスイングアクスルであった。「搭載位置が高い星型3気筒とスイングアクスルは、強烈なオーバーステアを起こした」とはモールトンの談。

彼は、途中でプロジェクトから離れ、家業に入社する。後日、イシゴニスがアレックスに語ったが、新型車(たぶんモーリス・マイナー)の公道テスト中に、お茶休憩地点で遭遇したのがフェデンカー・チームだった。見知らぬ同士で、お互い無言で車を観察しあった。イシゴニスは、フェデンカーについて「あれはダメだよ」と評した。その通り、唯一のプロトタイプがクラッシュ大破、開発ドライバーが重傷を負い、計画は消滅した。

フェデンはよりオーソドックスな設計を試みたが、チームから革新派のイアン・ダンカンが離脱した。彼は、自ら設計、試作した超小型車"ドラゴンフライ"とともにオースティン社に移った。それはBSAモーターサイクルの空冷2気筒パワーユニットを横置きした前輪駆動車であった。モールトンは回顧録にフェデンカー用積層ラバーリング図を掲載しているが、サスペンション形態からして、どうもドラゴンフライらしい。イシゴニスのADO15ミニに先立つこと10年である。しかし、オースティン社長レナード・ロードは、堅実な後輪駆動(FR)路線を選び、ドラゴンフライは旧防空壕に放置され消滅する。

フェデンカー3銃士の他のひとり、ピーター・ウエアは、大手メーカーのルーツ・グループに入り、技術役員としてイシゴニ・ミニの対抗車であるヒルマン・"インプ"の開発を命じた。アレックス・モールトンは、イシゴニスのADO車群のサスペンションを考案、開発することになる。

大戦後、アレックスはケンブリッジに復学し卒業、家業であるスペンサー・モールトン社に技術員として入社した。同社内に研究所を設立し、自動車、鉄道車両用ラバースプリングを開発に従事した。鋼板二重筒内にゴム接着した"フレキシター"は、2台の1950年代生産車に採用された。オースティン社がランドローバーに対抗すべく打ち出した4x4"ジプシー"と超小型三輪車、ボンド"ミニカー"後期型だ。

アレック・イシゴニス
1948年、モーリス社はイシゴニスが戦前に設計に着手し、戦後に開発した小型車"マイナー"を発表した。1971年までに137万台を生産したヒット車だ。FR車だが、モノコックボディや前輪トーションバースプリングなど先進機構を採用した。強力なエンジンではないが、モールトンが「減速しないでコーナーに突っ込める」と形容した卓越した操安性を有した。

彼はイシゴニスの知己を熱望した。イシゴニスの趣味レース仲間を介して会い、意気投合する。母子家庭で育ったひとりっ子のイシゴニスは、若手技術者数人と語り合うのを楽しんだ。当初、彼は、ゴムなどはサスペンション媒体には不適当と考えたが、モールトンの熱意と家業の業績を知り、変化しだす。

1952年、衝撃が走る。天敵であったオースティンとモーリスが合併し、英大民族メーカーグループのBMCを形成した。モーリス・チーフエンジニアの地位にあった誇り高きイシゴニスは降格を怖れた。彼の懇親グループのひとりが中規模メーカー、アルヴィス社長の息子マイク・マークスで、パークス親子の勧めでイシゴニスはアルヴィスに移る。のちにマイク・パークスはルーツ社においてミニのライバル車インプ開発主要メンバーとなる。また、フェラーリ・ワークスドライバーとして活躍した。

アルヴィスでは中型上級サルーンを設計、プロトタイプ製作、ロードテストまで進んだ。V8エンジン、トランスアクスル後輪駆動、モノコックボディ、そしてアレックス・モールトンのラバースプリングである液圧前後懸架連結"ハイドロラスティック"第一世代を用いた。非常に優れた乗り心地とボディ姿勢コントロールを有したとわれた。しかし、アルヴィス社の規模としては、生産は至難との経営判断で計画中止となり、唯一の試作車も解体された。

レナード・ロード会長の懇請により、イシゴニスはBMCに戻る。旧態化していた車種構成を一新すべく、イシゴニスが開発した大中小の3台が、ADO15"ミニ"、ADO16"1100"、ADO17"1800"である。ミニには最新のハイドロラスティックが間に合わず、ラバースプリングで発売となる。その後、ハイドロラステク化されるが、その後、コスト低減目的でラバーに戻る。

ちなみに、1964年、65年、67年モンテカルロ・ラリー優勝ミニは、すべてハイドロラスティック仕様であった。66年も1-2−3フィニッシュしたのだが、仏主催側のヘッドランプ規則違反の理由で失格になった。ハリマンBMC社長は、「いいじゃないか。その方がニュース種になる」と。


モンテカルロ・ラリー優勝ミニは、すべてハイドロラスティック仕様

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文、写真:山口京一 Words and Photos:Jack YAMAGUCHIVol.

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