ベントレー創始者が成し遂げた最も偉大な業績は「戦闘機エンジン開発」だった!?

戦場のベントレー(Archive Picture : Chronicle / Alamy Stock Photo)



彼は自分にそこまで厳しくある必要はなかったかもしれない。BR2は、終戦までにキャメルの後継単座戦闘機、ソッピース・スナイプのプロトタイプ2号機に搭載され、この戦争における最高の連合軍側戦闘機として評価された。終戦前の最後の3カ月の戦闘に投入された数は100基に満たなかったが、それらは真に最強の"マシン"だった。そのことは、スナイプを駆ったカナダ軍のエース、ウイリアム・バーカー少佐が、1918年10月27日の1回の戦闘で実証している。少佐は、当時ドイツ軍最良の戦闘機として連合国側パイロットに恐れられていた、フォッカーD.VIIを15機以上撃墜したのだった。それも脚や肘を負傷しながら単騎での空中戦であり、これに対してビクトリア十字勲章が授与された。BR2搭載のスナイプは終戦後も現役に残り、退役したのは1926年のことであった。

戦いが終わると、W.O.はほとんど4年間も会っていなかった妻と暮らすためロンドン北部のハムステッドに戻った。英国授賞審議会はW.O.の戦時功績に対し8000ポンドの支払いを決定したが、W.O.の相談役であったダグラス・ホッグ勅選弁護士(後のヘイシャルム卿)は、W.O.が救った命はごくわずかな数であったと考え、彼の報酬を辞退した。

その後、W.O.は結果としてヴィンテッジ期の至高スポーツカーとなる自動車を造るビジネスに着手するため、友人を伴って起業する。しかし、彼が成し遂げた業績の中で最も偉大なものは、「大戦の暗い日々のなかでその潮流を変えることに寄与した航空機エンジンであった」と、半生のなかでそう考えていたのではなかろうか。

ベントレーエンジンのソッピース・キャメルは、フォッカーによる優勢を終らせた。W.O.ベントレー設計のBR2エンジンは、その時代で最も強力な星形エンジンだった。これはロンドンのヘンドンにある空軍博物館所蔵。

編集翻訳:小石原耕作 Transcreation:Kosaku KOISHIHARA Words : Steve Moody Colour Photography : Jamie Lipman Archive Picture : Chronicle / Alamy Stock Photo 取材協力:アラン・ボッドフィッシュ(W.O.ベントレー記念財団)、ヘンドン英国空軍博物館、ストウ・マリーズ第一次大戦航空博物館

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