イギリスが生んだ偉大なドライバー デレック・ベルに聞く栄光の日々

Photography:Delwyn Mallet and Getty Images



1970年代末には、デレックはすっかり幻滅し、資金も底を尽き、引退を考えていたという。
「スポーツカーレースは完全に泥沼状態だった。私たちドライバーにとって問題は、ルノーやポルシェといったビッグチームが、ル・マンのような大きなレースのときだけトップドライバーを使いたがったことだった。だが、それより小さいチームとフルシーズンの契約を交わせば、ル・マンでも出場を求められるから、自分の首を絞めるようなものだった。だが、たった1レースの報酬だけで1年間食いつなぐのは無理だ」

デレックは苦労しながらも続け、レースに出るためなら、あらゆる車で走った。「とにかく出場する機会を追い求めたよ。機会があればどこへでも金を持ち込んだ。でも結局、引退して実家の農場に戻ることにした。1970年代初めは、F1カーで予選落ちしても、スポーツカーレースのおかげでやる気を保つことができた。だが70年代の後半には、トップクラスの車で走るチャンスは、すっかりなくなりそうだった」

「世界選手権は、ポイントによって賞金が出たが、私はノーポイントだった。カナダにチェット・ヴィンセンツという本当に素晴らしい人がいてね、934ポルシェを走らせていた。チェットは934で、いつだってトップ10に入っていた。問題があっても、いつも完走していたんだ。そして、賞金は10位まで支払われた」



「それで、彼に電話して頼んだ。『なあチェット、困ってるんだ。俺のキャリアは終わりだ。だが最後の花道に、モスポートであんたの車で走らせてくれないか』とね。すると、『報酬を払う余裕はないが、旅費と宿泊費は出そう』と言ってくれた。だからチケットを買うと、すぐにトロントへ飛んだんだ。なのに、あの車ときたら、それまでは毎レース完走していたくせに、あの時だけミスファイアでプスプスいって、結局17位辺りで終わったよ」

「モスポートにいる間に、ジャンピエロ・モレッティと話す機会があった。『来週エルクハートレイクでうちの車に乗らないか。報酬は払えないが、ホテル代はうちがもつ』と言うんだ。それで、そっちへ向かった。方法は覚えていない。トラックの荷台にでも乗せてもらったんだろう。グリッドにつくと、隣はアルヴィン・スプリンガーの出来のいいアンディアル935ポルシェだった。そこでアルヴィンが『なあ、来週のミッドオハイオはうちで走らないか。賞金は6万ドルだぜ』と言うから『乗った』と答えた。アルヴィンは続けて『歩合でやってくれるよな』と。『だめだ。こっちに来て3週間になる。もう一文なしだ。前払いで数千は必要だ』と返事した」

「それはともかく、エルクハートのレースでは、エンジンがウォームアップでブローして、スペアで走るはめになったんだが、スペアのほうも燃料のピックアップにトラブルが出た。結局10位かそこらだったから、『たいした金にもならないな』と思ったよ」

「それからミッドオハイオのランバーマンズ500に行った。グリッドは4列目辺りで、前には速いのがいっぱいいた。Can-Amマシンやすごく速い2リッターの小型スポーツカーなんかだ。ブランズハッチに似たコースだった。走らせる935はのっそりしていて、パワーはあり余っていたが、それを生かせていなかった。グリッドについていたとき、本当にスタート直前だったんだが、まだアルヴィンは『デレック、歩合でやるよな』と言っていて、こっちも『だめだ。即金だ』と譲らなかった」

「もちろん、そのレースで勝ってやったさ。分かっていたら6万ドルの10%で手を打っていたんだがなあ。だから結局は、一文なしで帰路についたよ。でも、誰だって自分の最後のレースは忘れられない。それがいいレースだったんだ」

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA  Words:Delwyn Mallet 

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