スピードに命を賭けて│1930年代に世界を魅了した世界

octane UK



1928年にさかのぼってみよう。1923年のグランプリで優勝したサンビームのドライバーであるヘンリー・シーグレーブが、『スピードの魅力(The Lure of Speed)』を出版している。ヘンリーは「スピードを求める事は人間の本能であり、進化の過程においても重要な役割を果たしてきた。スピードを生み出す技術が、現代社会の大きな偉業といえる。」と述べている。

また、スピード競争を加速させる最も大きな要因をこうまとめている。「競い合い。一人の鉄道技術者が40mphを達成すると、そのライバルは直ぐに50mphを記録する。 そして、この高め合いは永遠に続くのだ。」

1927年、シーグレーブはツインエンジン、1000馬力のサンビームで史上初となる200mph超えという最速記録を樹立した。さらに1929年、彼はデイトナビーチで2万3900ccのゴールデンアロー号を運転、自身の203.45mphという記録を更新して231.45mphというとてつもない記録を築き、ナイトの称号も得たのだ。アーバイン・ネピアのゴールデンアロー号は魅力的な要素に溢れていた。スピード、パワー、優雅さ、そして技術の粋が詰まっていて、この時代の男性の憧れのすべてを象徴していたと言える。ちなみに現在、シーグレーブのサンビームとゴールデンアロー号は、共にボーリューのモーター博物館で観ることができる。では彼のライバルたちはどうだったのか?



アメリカ人のリー・バイブルはシーグレーブが記録を更新した同じ週末、2万7000ccV12エアロエンジンのホワイト・トリプレックスに乗り、事故死。

その前年の1928年、フランク・ロックハートは、美しいボディに3リッターV16エンジンを搭載したスラッツ・ブラックホークで同様に失敗して命を落としている。砂に埋もれた貝殻の破片によるタイヤの損傷が原因とされている。ロックハートとバイブルの両氏は共に「地上最速の男」を目指し、スピードにより命を落とした。そして新聞はそれにより大きな利益をあげた。

1930年6月、シーグレーブとエンジニアのビクター・ハリウェルもまた、スピードに取り憑かれたものの宿命から逃れる事はできなかった。ウィンダミア湖で水上の最速記録更新に挑んだふたりだが、彼らの操るミスイングランドⅡ号は100mphを超える速度で浮遊していた丸太に当り転覆。スピードによる死は、再び紙面を賑わせ売上を伸ばした。

メディアに取っては、実はどちらでも良かった。注目度の高い話題は成功でも失敗でも、いずれも売上に貢献したからだ。ただ、そのメディアを手玉に取った人物もいた。それがマルコム・キャンベルだ。当時、すでに自己PRというテクニックを身に付けていた彼は、無謀とも言える記録更新に次々に挑戦しては、メディアを上手に活用していた。



1924年、ウェールズのペンディン・サンド。350馬力のサンビームで146.16 mphを記録して陸上の最速記録を更新。それからの11年間で彼は記録を更新し続ける。この更新劇こそが大切であった。最終的には1935年、ボンネビル・ソルトフラッツでロールス・ロイスのRエンジンを搭載したブルーバード号で、史上初めての300 mphを超す速度記録を打ち立てた。2度の挑戦での平均速度は301.337 mph。1939年、シーグレーブ同様に水上での記録にも挑み、4度もの更新に成功。後に彼の息子が命を落とすレイクコニストンではブルーバードK4で141.740 mphを記録した。

英国でも、スピードに挑む人は途絶えなかった。ジョージ・アイストンは1938年にボンネビルで357.5 mphをツインRエンジンのサンダーボルトで記録。やや控えめの紳士であったジョン・コブは、ライオンエンジンのレールトンスペシャルを駆り、同じボンネビルで1939年、369.74 mphで記録を更新。

1930年代でスピードを求めたのは、車だけではなかった。ドライバーのジョーセフ・ダディングトンと消防士のトーマス・ブレイは、1938年7月3日、完成して5カ月のLNER A4パシフィッククラスの蒸気機関車で125.88 mphの記録を樹立した。この記録は正式には未だ更新されていない。

また、飛行機の世界ではロイヤル・エアフォース・ハイスピード・フライト部隊のジョージ・ステインフォースが、スーパーマリンS6Bシープレーンで407.5 mphでシュナイダー・トロフィーを勝ち取った。3年後、24気筒タンデムエンジンのマッキMC72で、イタリアのデゼンツァーノ・デル・ガルダで、フラン チェスコ・アジェッロが440.5 mphで世界最速記録を樹立。そして1939年には、ナチスドイツに最速記録が塗り替えられ、フリッツ・ヴェンデルがダイムラー・ベンツのV12エンジン を搭載したメッサーシュミットMe 209 V1 で469.22mphを打ち出した。



海上では、世界中の豪華客船が「大西洋のブルーリボン」を競い合った。1929 年から1933年にかけてドイツのヨーロッパ号とブレーメン号が非公式記録を奪い合い、シェルブールからニューヨーク沖のアンブローズ・ライトまでの航海で、1930 年の27.91 knから1933年には27.92 knへと速度を上げていった。その年の8月、イタリアのレックス号が28.93knを記録し、さらに1934年にはフランスのノルマンディ号が29 kn、そして1935年にはキューナード社のクイーン・メリー号が30.14knでブルーリボンを手にした。1937年にはノルマンディ号がより速度を上げていったが1938年8月にはクイーン・メリー号が30.99knに達している。

大戦中、カモフラージュのためにグレーに塗られたクイーン・メリー号は、Uボートの襲来を避けながら米兵を英国に運び、そののべ乗船者数は1942年12月に 1万6082名を記録した。余談であるが、英国の女性にもモテて、更に配給も自分たちを上回ることに嫉妬した英国兵たちは、米兵がもっと「慎んで」過ごせば2万5000人は運べたのではないかと妬んでいたそうだ。

編集翻訳:数賀山 まり Transcreation: DMari SUGAYAMA Words: Doug Nye

無料メールマガジン登録   人気の記事や編集部おすすめ記事を配信         
登録することで、会員規約に同意したものとみなされます。

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

RANKING人気の記事