空想上のユニコーン 夢と幻のマセラティ│3500GT コンバーチブル

Photography: Martyn Goddard


 
こうして快適性とスピードを兼ね備えた高級グランドツアラーが誕生し、3500GTと名付けられた。ボディデザインには公募制が採られ、アレマノとトゥーリングが最終選考に残って、契約を獲得したのはトゥーリングだった。
 
顧客への納車が始まったのは1957年12月だ。以来、後継モデルのセブリングが登場する1964年までに、2000台弱の3500GTがモデナから送り出された。その販売台数は、やがて大幅に価格の低いビトゥルボが記録を塗りかえるまで、マセラティの歴代モデルでトップだった。3500GTが会社を救ったことに異を唱える者はまずいないだろう。必然的に1958年にはコンバーチブルが検討され、トゥーリングも入札に参加した。しかし、この契約を獲得したのはカロッツェリア・ヴィニャーレだった。
 
それも意外なことではない。歴史的に見ても、マセラティがトリノ以外のカロッツェリアを採用することは稀だった。にもかかわらずミラノのトゥーリングが3500クーペの契約を獲得できたのは、フランコ・コルナッキアの口添えがあったからだといわれている。コルナッキアはミラノのフェラーリディーラーだがマセラティも扱い、F1ではマセラティのセミワークスチームを所有していた。ただし、当時の関係者は、そうした外部からの影響を今でも認めたがらないだろう。コンバーチブルの契約を逃した理由については、マセラティが明確に異なるルックスを求めていたのに対して、トゥーリングのデザインにはクーペとの関連がはっきり表れていたから、というのが大方の見方だ。 

あるいは単に経済的な理由だったのかもしれない。ヴィニャーレは主要パネルに一般的なスチールを使用した。対してトゥーリング自慢のスーパーレッジェーラ工法は、軽量アルミニウムで鋼管フレームを覆うため、手間がかかり、大幅に高くつく。1リラ削るために血の汗を流していたマセラティにとって、製造コストは何より重要だったに違いない。そもそも、コンバーチブルはたった250台程度と、クーペに比べれば微々たる数だから、トゥーリングがその契約を逃しても大きな問題ではない。

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo. )  Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation: Megumi KINOSHITA Words: Dale Drinnon 

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