MGBの誕生に大きく貢献したエンジニア ドナルド・ヘイターの生涯

ドナルド・ヘイターは1926年に、イングランド南東部バークシャー州メイデンヘッドで生まれた。父 エドガーは警察官として警部補を務め、母のエイミーは軍需工場で働く女工であった。ドナルド(以下「ドン」)はアビンドン・グラマースクールで教育を受け、同校でオックスフード・ペンブルック・カレッジへの奨学金を得る。しかし戦争の始まりとともに、カウリーのプレスト・スチール・カンパニーで、航空設計見習いとして従事するように国から言い渡された。この会社では戦略爆撃機アブロ・ランカスターを含む、航空機プロジェクトのいくつかに携わることになった。

戦争終結後、プレスト・スチール・カンパニーは自動車パネルの製造を再開し、ドンはMGとの仕事で初めて車の設計に関わることになった。模型を作る作業に始まり、開発中のマグネットZAのドアパネルを機械製図するのが任務だった。マグネットZAはジェラルド・パーマーによって設計され、MGとして初めてモノコック構造を採用した車だ。のちに、彼がMGBを設計する際にもこのモノコック構造を採用している。

自動車業界でキャリアを重ねたいと考えた彼は、当時のミドルセックス州フェルサムにある、アストンマーティンでの職を得る。最初の仕事は、DB2/4 Mk3のラジエーターキャップの新たなデザインを考案することであった。DB2/4の魅力的なフォルムは、当時からトレードマークとなっていたため、Mk3でもそのフォルムに少し手を加える程度の控えめな変更に終始していた。また、アストンは2年以内にフェルサムからニューポート・パグネルへ工場を退去し、ドンも異動することに。彼の父は警察を退職後、MGに勤務し、完成したTFを輸出用の波止場へと運び出す仕事をしていた。ドンはアストンを辞め、1956年にMGのチーフ・ボディ・エンジニアであったジム・オニールに、上級製図工として雇われ、父と同じ職場で働いた。 

彼がアビンドンに着いた時、MGAはもうすで既に製造ライン入りしていたようだ。彼は、MGAクーペ製作のため、のちのツインカムエンジンの設計を任された。また、ル・マン仕様のMGAファストバック・クーペのボディも設計し、1960年にはテッド・ルンドがその車を操りクラス優勝を果たした。MGはアビントンに生産ラインを持つ、単なる自動車ブランドというだけではなくなっていた。また、ドンはオースチン・ヒーレー・スプライトの設計に取り組む中で、フレームとボディの一体化した構造に関する知識を獲得していく。

1958年には、可愛いらしくもスパルタンなMGAに代わるものとして、マネージング・ダイレクターのジョン・ソーンリーとチーフ・エンジニアのシド・エネバーはMGAのシャシーに見切りをつけ、モノコック構造を導入する。ドンは自由に新たなボディのアイデアを試す権限を与えられた。4分の1スケールの模型で経営層の承認を得たのち、実物大のモデル製作に続き、生産へのゴーサインに至ったのである。

派手さを慎み、シンプルだがエレガントな姿のMGBは、アメリカとヨーロッパですぐさま成功を収める。1962年に発売された同車は、構想からデザインまで7年間を要し、18年間生産され続けた。



ドンはMGでのキャリアを通して、ボディ製図工のチーフ、チーフ・プロジェクト・エンジニア、1973年から会社の倒産までデザインと開発のチーフ・エンジニアを歴任した。MGBの後継車に向けてチームを動かしたが、ブリティッシュ・レイランド役員はトライアンフ・TR7をその代わりにしようとする。そして、1980年にアビンドンの工場は閉鎖された。この工場の終焉とともに、ロードスター(彼にとって、最後となるテストカーのうちの1台)のボディシェルと価格を極力抑えたV8テストエンジンの製作に身を捧げることになる。結果、愛国的なブルックランズグリーンを身にまとった、V8エンジン搭載、限定生産のロードスターが完成した。彼は以後33年間、この車を愛用したそうだ。

MG退社後、短期ながらプレスト・スチールへ再入社した。自動車業界での彼の人生は一周回って、キャリアをスタートさせた会社に戻ってきたのだ。この会社で、彼は日本車(ホンダのバラード)をイギリス車にするという、あまり達成感を味わえないトライアンフ・アクレイムのプロジェクトに参加させられた。同社に2年間勤め、56歳という若さで退職するが、すぐに彼の才能を生かせる新たな場を見つける。世界的にも有名な整形外科病院である、ナッフィールド・オーソパーエディック・センターで、脳性麻痺、運動ニューロン病や、その他の障害のある患者向け車椅子を開発することになったのである。

後年、彼は当然ながらイギリスで最も成功を収めたスポーツカーの製作に貢献できたことを誇りに思っていたようだ。それだけでなく、MG退職後に勤めたナッフィールド・オーソパーエディック・センターの人々の顔も懐かしく思い出したことだろう。MGでの仕事は、『心から楽しめた』が、ナッフィールドでの仕事は『心からやりがいを感じられた』と彼は話した。

彼はV8ロードスターで、MGカークラブイベントに定期的に出席(2001年には名誉副社長に任命された)し、老後まで、地元、遠くの南アフリカ、オーストラリアなどで笑顔に満ちた講義を続けたのだ。

彼は友人や家族からも、控えめで温和な紳士であったといわれている。2020年10月、ドン・ヘイターは94歳で静かに息を引き取った。その葬列を先導したのはMGBの車列だった。

veloce.co.uk 訳:オクタン編集部

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