BRM V16エンジン|モーターレーシングの愛されるべき厄介者が甦った

Photography: Paul Harmer



戦績

BRM V16のデビューは1950年8月26日のシルバーストンで開催された第2回BRDC(British Racing Driver’sClub)インターナショナル・トロフィーのことだった。だが、デビュー戦はドライブシャフトが破損して、ほんの数インチを走っただけで終わった。このことがしっかりと記録されていたら、その後Mk.2として知られる軽量化したショートホイールベース仕様のP30は、当初の問題を克服してもっと勝てていただろう。

新たな問題になったのは、1954年にフォーミュラ1のレギュレーションが変更され、自然吸気は2.5ℓまで、過給器付きは750ccまでとなったことだろう。これによってP15はチャンピオンシップへの参戦資格がなくなり、英国内のフォーミュラ・リブレへ参戦を余儀なくされた。

フアン・マヌエル・ファンジオは1952年にV16をドライブし、「過去最高のF1カー」と評したが、彼以外のドライバー達には一様に不評だった。ファンジオはどんなものでもドライブできたからだ。1953年、南仏アルビーのGPではファンジオがポールポジションにつけだが、オーバーヒートでリタイアに終わり、チームメイトのアルゼンチン人ドライバー、ホセ・フロイライン・ゴンザレスが総合2位に入った。

BRM V16をリンカーンシャーのBRM本社近郊のフォーキンガム飛行場で初めてテストしたのはマイク・ホーソンだった。「使えない。8000rpm以下でコーナーに入ると、出力は毎回、必ずすぐに落ちる。そして8000rpmに回復した途端、突然フルパワーが出る。また、車をまっすぐに保つという仕事もしなければならない。8000rpmからはこれこそ実にエンジンそのもののようなエンジンだったが、ステアリングについては言うことは何もない」と冷淡だった。

スターリング・モスも1951年にモンツァで車をテストし、問題点のレポートをBRM創設者のひとり、レイモンド・メイズに送っている。彼も低い直進安定性と突発的なパワーの発生によって、コーナーでのドリフトが不可能な点を指摘し、「恐ろしいというより、むしろひどいマシン」で、「レースに使える代物ではない」と結論づけた。モスの批判は居住性にも及んでいて、それは彼が推奨しているストレートアームのドライビングポジションが取れないことが不満だった。

重要な計器類
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編集翻訳:小石原耕作(Ursus Page Makers) Transcreation: Kosaku KOISHIHARA (Ursus Page Makers) Words: Paul Hardiman 

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