ロードスターとして使用されていたブガッティ・タイプ51の再生物語

Photography: Matthew Howell Archive Photographs: Adriano Cimarosti



最初の遠征は、ピカルディ自動車クラブとエーヌ・オートバイ・クラブの共催で行われたサン・カンタン・スプリントで、これは高速道RN44上で競う1㎞スタンディングスタートのイベントだった。アン・イティエは8気筒ブガッティのステアリングを握り、排気量1500㏄クラスで優勝、賞賛を浴びた。

次はT51の最初のサーキットレースとなる、1500㏄グランプリ・ド・ピカルディであった。15周で争われるこのレースで、イティエはマセラティ・ティーポ26C、4台のT37ブガッティ、1台のサルムソンの包囲網に対峙していた。『モータースポーツ』誌は、「最初からマダム・イティエのレースだった。彼女の8気筒ブガッティは、他のすべての競争相手の力を超えており、彼女は着実に十分なリードを作り上げた」と報じている。ファステスト・ラップを記録、2位のマセラティにほぼ8分差を付けてフィニッシュした。レース後には、予選中に死亡したブガッティのルイ・トランティニャンの事故現場に献花している。



T51は5月28日にはニュルブルクリンクで行われるアイフェルレンネン1500㏄レースにエントリーしたが、ヒトラーの首相任命に伴うドイツの混乱によって、スタートには予定の3分の2しか参加車はなかった。

アン・イティエは8月にはリモージュ近くのエイムティエでのヒルクライムに参加、1500ccクラスで2位を獲得した。続くグランプリ・ド・ラ・ボールでは1500㏄クラスにはエントリーが3台のみだった。ド・フレスネの小さなローザンガールには勝ち目はなく、アミルカーC6 のジョゼ・スカロンとイティエのT51の事実上の一騎打ちとなった。しかし10周目、スカロンはピストンが破損して脱落する。
 
『モータースポーツ』誌は次のようにレポー
トしている。「マダム・イティエはその後、楽なレース展開となったかに思えたが、他の1台が操作を誤り、コーナーでイティエのブガッティの側面に衝突してマシンを大きく損傷、レース続行が不可能となった。この瞬間、彼女の勝利への希望は消えた。これでローザンガールが生き残ったものの、2周後にはマシントラブルが発生、リタイアとなった。結果、このクラスはレース無効となった」

イティエはシーズンをクラス優勝という好成績で終えることになる。カップブルトンの別荘から15マイル(約24㎞)の距離で開催されたレクツール(ミディ・ピレネー)ヒルクライムは、ビアリッツの灯台までの0.5㎞の登坂路で新記録を樹立した。

1934年はブガッティの調子が良かった。今シーズン初戦のグランプリ・ド・ピカルディは5月27日に全長9.62㎞のペロンヌ・サーキットの20周で競われ、アン・イティエは、デュキャロリのブガッティT37Aモノポストに3分遅れてフィニッシュ、第3位を確保した。『モータースポーツ』誌は「レース全般にわたって、彼女は冷静に落ち着いてブガッティを運転していた」と伝えている。

灯台へのヒルクライムを新記録の勝利で終えたその年、彼女はすべてのライバルを退け、雑誌パリ・ソワールが主催するトロフィーを受賞した。シーズン中のスピード・トライアルとヒルクライムの記録を祝おうと、カップブルトンの友人らによってサプライズパーティーが催され、アン・イティエの名誉を讃えた。

次のシーズンに向けてアン・イティエは2台目のT51(No.51142)を購入した。これから5年を戦うことになるこのマシンには、2.3リッターエンジンを搭載した。得意としていたペロンヌのピカルディGPに参戦したイティエだったが、予選中、メカニックのシャンピヨンがマシンを横転させてしまい、ひどくダメージを受けため、以前のT51Aを代わりに用意しなければならなくなった。心配そうに待つ彼女のもとに代車が到着したのはレースの直前だった。スピードのあるT59に乗るロベール・ブノアとアール・ハウらになす術はなく、1-2でゴールした2人に対して、イティエのブガッティは5周の差をつけられて6位に入るのが精一杯だった。

翌5月には、モンレリーでレーシングドライバー協会が主催する競技会が開催された。イティエは、大きな呼び物となるイベントに出場する。2.5㎞の高速オーバルバンクで競われた単葉機ポテ43との5周のマッチレースに自らのブガッティで出場したのだ。勝利を収めたのは、ドイツ杯の優勝者ジョルジュ・デトレの操縦する飛行機となったが、ブガッティは遅れることわずか1.2秒、時速109.623マイル(176.42㎞/h)の最速ラップを記録した。

7月15日付けの週刊紙ル・オートに、売り手のつかないままの小さな売買広告が掲載されたのち、タイプ51はシーズン最後となる遠征へと出発した。9月20日にモンレリーでドライバー協会による第2回競技会では、188㎞を競うクープ・アニュアル・ド・ヴィテスが開催された。イティエは、他の2台のT51Aを退け(2台ともにリタイア)、クラス優勝、ドラエに続く総合2位でフィニッシュした。

イティエは次期シーズン用に3台目の購入に踏み切り、1937年には3レースに出場した。5月26日にグランプリ・デ・アンデパンダンで総合4位とクラス優勝でフィニッシュ、これが成功した最後のレースとなった。6月のグランプリ・ド・ピカルディではメカニカル・トラブルに見舞われた。8月、スイスのベルンGPでは、最終予選を通過することができなかった(スターティングマネーは成果のない遠征に対して多少の補填となったに違いない)。

編集翻訳:崎山知佳子(office Sky M) Transcreation: Chikako SAKIYAMA (office Sky M) Words: David Burgess-Wise  

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