真っ赤なモンスター2台のワークス・ビッグヒーレー

左:1959年オースチン・ヒーレー3000"SMO 744"、右:1964年オースチン・ヒーレー3000"BMO 93B"(Photography:Matthew Howell)



その頃には3000が登場していた。3000こそ、ラリーの歴史におけるヒーレーの地位を確立したモデルだ。そのすべての出発点となったのが1959年の3台のワークスカー、SMO745と746、そして今回試乗した744である。SMO 744は、ビル・シェパードのドライブでアルペン・ラリーに出走したが、リタイアに終わった。しかし、リエージュ-ローマ-リエージュではピーター・ライリーによってクラス優勝に輝いた。他の2台も、モス/ウィズダム組がラリー・ドイツで総合2位、ドンとアールのモーリー兄弟がRACラリーでクラス優勝と、大活躍した。ヒーレーで何度も成功を収めることとなるモーリー兄弟は、最高の意味の"アマチュア"で、その活動スケジュールは家族が営む農場の収穫時期を考慮して組まれていた。

オースチン・ヒーレーの権威で、今回紹介した2台の3000の面倒を見ているポール・ウールマーが、背景を説明してくれた。「登録ナンバーPMOのワークス100/6は標準の市販車と大差なかった。たいした開発は行われなかった。予算が厳しかったためだ。しかし、1959年に3000が登場すると、会社は派手な広報活動を展開したいと考えた。新車を宣伝したかったからだが、それだけでなく、時代の先を行く素晴らしい車だったからだ。そこで、ラリーを通して3000を大いに宣伝したんだ」

標準の3000が13/4インチのSUキャブレターを2基搭載したのに対し、ワークスカーのSMOは2インチのユニットを3基搭載。圧縮比を引き上げ、カムシャフトもアップグレードし、4輪すべてにディスクブレーキを装着した。しかし、モディファイといえるのはその程度だった。

SMO 744は翌1960年もワークスカーとして活動した。ライリーが744をドライブする予定だったセストリエーレ・ラリーは開催が中止され、サーキット・オブ・アイルランド・ラリーではパット・モスがリタイア、アクロポリス・ラリーでもライリーがリタイアした。しかし、リエージュではデビッド・シーグル-モリスが5位に、ドイツではモーリー兄弟が12位で完走。そしてRACラリーでロニー・アダムズが総合39位でフィニッシュし、744のワークスキャリアは幕を閉じた。

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1950年代後半、BMCはラリーに複数のモデルをエントリーしてクラス優勝を狙った。例えば1959年にも、オースチン・ヒーレー100/6と3000に加えて、オースチンA40ファリーナ、A35、A105、オースチン・ヒーレー・スプライト、ライレー・ワン・ポイント・ファイブ、MGAツインカム、ウォーズレー1500、モーリス・マイナーが出走している。しかし、1960年代になると総合優勝が重視されるようになり、コンペティション部門はミニとビッグヒーレーに資金と人員を集中させるようになった。

「ラリーでは競争が激化し、車も以前に比べればある程度モディファイされるようになった」こう話すのは、1961年にマーカス・チェンバーズからコンペティション部門責任者の座を引き継いだスチュアート・ターナーだ。それまでコ・ドライバーを務めていたターナーは、こんな逸話も教えてくれた。「私は幸運にも、1958年に英国ラリー選手権の初代チャンピオンになった男の隣に座った。あるラウンドで、数日前に車にトラブルが起きた。そこで彼は近所のトライアンフディーラーからTR3を借りて、私たちはそれで優勝したんだ。私は月曜にその車をディーラーに返し、再び展示車両に仲間入りするのを見たよ。これ以上の"標準仕様"があるかい?」

オースチン・ヒーレーはラリーにうってつけの車だったとターナーは振り返る。「3000は頑丈でシンプルだ。アルペンやリエージュのようなイベントには理想的だよ。私は3000に弱いんだ。マネジメントに移る前の最後のイベントで走った車だからね。デレック・アストルと出走したラリー・ポーランドだった。彼は素晴らしい"キャラクター"だったよ。ラリーからの帰り道で、遠くに国境警備兵を見つけた彼は、その警備兵に向かって高速道路を突進していって、数フィート手前で急停止させたんだ。警備兵も見事な反応を見せた。即座に銃の安全装置を外してね…」

親会社のBMCはすこぶる協力的だったという。「年に1回、会長とアレック・イシゴニスが出席するコンペティション委員会があった。MGでの上司のジョン・ソーンリーと一緒に議題を準備し、私が議事録も作ったけれど、あとは好きにやらせてくれた。といってもストーク卿が来る(レイランドとの合併を指す)前の話だけれどね。感謝しているよ」

「私はイベントについて、コ・ドライバー(イギリス人が多かった)はもちろん、ダグ・ワッツと彼が率いるメカニックたちとも大いに話し合った。売り上げを追い求めて、ここへ行け、あそこへ行けとプレッシャーを掛けられたことは一度もない。一番いい結果が出せると私が考えるイベントに出走していた」

コンペティション部門を引き継ぐなら、「ミニ・クーパーが登場してからにしろ」というのがターナーの持論だ。イシゴニスが生み出した革命的な小型車は、1960年代が進むにつれて主役の座を占めていった。しかし、頑強なヒーレーのほうが適したイベントもあったとターナーは指摘する。例えばアルペン・ラリーでは、1961年にモーリー兄弟が総合優勝に輝き、1962年には連覇を果たした。

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:James Page Photography:Matthew Howell

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