真っ赤なモンスター2台のワークス・ビッグヒーレー

左:1959年オースチン・ヒーレー3000"SMO 744"、右:1964年オースチン・ヒーレー3000"BMO 93B"(Photography:Matthew Howell)



ポール・ウールマーは次のように説明した。「ヒーレーには巨大なシャシーがあった。シャシーレールも素晴らしく大きい。ワークスカーはその底面をさらに補強していた。下からの衝撃に耐えられるよう、スチールの厚みを増やしてね。もちろんサンプガードも装着していた」

それでも車体は多くのダメージを負った。「車はひどい状態で戻ってきたものだ。手元にリエージュでのBMOの写真が何枚かある。そのときは何度もパンクに見舞われた。タイヤの開発が追いついていなかったんだ。スペアを2本載せていたけれど、それを使い果たしてしまったらどうするか。あとはリムで走り続けるしかない。リアのホイールアーチが完全にボロボロになった写真もある」

「車が戻ってくると、裸の状態にして、交換が必要なものはすべて交換した。唯一、使い続けたのがハードトップだ。ラリーステッカーを貼っていたからね。ルーフは車のアイデンティティーだった。フェンダーやドアは何の気兼ねもなく交換したが、ハードトップだけは残した」

1961年まで、ワークスのラリー・ヒーレーは2+2ではなく、すべて2シーターのボディシェルを使用していた。軽さと強度に優れるだけでなく、リアのバルクヘッドでサスペンションを強固に支持できたからだ。1961年にBMCは量産車をアップデートした。新しいMk.IIは、グリルが変わり、標準でトリプルキャブレターとなった以外に大きな変更点はなかった。翌年、さらに変更が加えられ、ウィンドスクリーンがカーブした形状となり、クォーターウィンドウを装備して、より洗練された車となった。中央にギアシフトを配置するのが標準となり、2シーターボディは廃止された。そのため、BMOのような後期のラリーカーは2+2のボディシェルを使用せざるを得なかった。車内のスペースが増えたのはよかったが。

ワークスカーに影響した大きなモデルチェンジはもう一度あった。1964年5月に発売となったMk.IIIフェーズ2だ。シャシーがリアアクスルの下を通る部分でへこむ形状となったため、それまで悪路でヒーレーの弱点となっていたライドハイトを上げることが可能となった。

オースチン・ヒーレーがワークスのラリー・プログラムで主力を演じたのはその年が最後だったが、見事に有終の美を飾った。BMO 93Bは2度出走している。RACラリーはモーリー兄弟によって総合21位で終えたが、その前に開催されたスパ-ソフィア-リェージュ・ラリーではアルトーネン/アンブローズ組が名高い総合優勝を遂げたのだ。このマラソン・デ・ラ・ルートが伝統的なフォーマットで開催されたのはこれが最後だった(翌1965年からはニュルブルクリンクでの84時間レースに)。

BMOをはじめとするワークス・ヒーレーは、アルミニウム製シリンダーヘッドや高い圧縮比、スポーティーなカムシャフトやアルミニウム製ボディパネルなどの装備を誇った。しかし、スパ-ソフィア-リェージュ・ラリーでは、その耐久レース的な性格から、純粋なパフォーマンスより依然として信頼性のほうが重要だった。ミニの完走がヒーレーでの優勝と同じくらいうれしかったとターナーが語っているところにも、BMCの2大スターの違いがよく現れている。

「ラウノの成功を支えたのは、その知性と細部までおろそかにしないラリーに対する姿勢だった。彼は偉大なドライバーだ」とターナーは称える。事前に周到な準備をするアンブローズとのコンビは完璧だった。アンブローズは、アルトーネンに睡眠が必要なときはいつでもドライビングを代わった。ある夜など、77マイルのセクションを52分で走破した。

二人は前年の1963年もトップを走ったが、イタリアでクラッシュしてリタイアを余儀なくされた。だが、この年はそんな悲運とは無縁だった。ドロミテ山地をあとにする頃には、後続のエリック・カールソンに28分ものリードを築いていた。あとは無事スパにたどり着くばかりだ。睡魔に打ち勝つため、二人は30分ごとに運転を交代した。それも、車を止めずに、である。いくらBMOが2+2のボディシェルで車内に余裕があったとはいえ、信じられない芸当だ。アンブローズものちに「簡単ではなかった」と控えめに語っている。アンブローズにとって、苛酷を極めたこのイベントの最後の思い出は、祝勝会の最中に眠りに落ち、タルタルステーキに顔から突っ込んだことだった。

翌年は、ティモ・マキネン/ポール・イースター組がRACラリーを総合2位でフィニッシュした。ヒーレーが祖国で優勝することはついになかったのである。こうして3000の時代は終焉を迎え、代わってミニがロータス・コルティナといったライバルの激しい追撃を受けて立った。ドン・モーリー曰く「大きな赤毛のモンスター」は、絶滅を間近にした種の最後の生き残りだった。長く苛酷な公道ラリーを完走するためのモデルは姿を消し、短いステージを疾駆するマシンに取って代わられていく。

偉大なる故パット・モスは、かつてBBCのインタビューでオースチン・ヒーレーについてこう語った。「あの車で走ったドライバーは皆、恐れをなしていたと思うわ。乾いたターマックでは路面を非常によく捉えたけれど、グラベルや砂に乗ったり、ましてやアイスやスノーだったりしたら、もう笑ってはいらなかった。パワーは最終的に200hpほどで、とても難しい車だったけれど、私たちは素晴らしいと思っていた。なにしろ速かったのよ」

取材協力:Pauland Richard Woolmer/Woolmer Classic Engineering(www.woolmerclassic.co.uk)


[左] 1964年オースチン・ヒーレー3000"BMO 93B"
エンジン:2912cc、直列6気筒、OHV、ウェバー製45 DCOEキャブレター×3基
最高出力:210bhp/5800rpm 最大トルク:29.0kgm/3800rpm
変速機:前進4段MT(3速と4速にオーバードライブ)、後輪駆動
ステアリング:カム&レバー
サスペンション(前):ロワーウィッシュボーン、コイルスプリング、
レバーアーム・ダンパー
サスペンション(後):リジッドアクスル、半楕円リーフスプリング、
アジャスタブル・レバーアーム・ダンパー、ラジアスアーム、パナールロッド
ブレーキ:4輪ディスク 車重:1150kg
最高速度:通常209km/h 0-100km/h加速:約9秒(ギア設定による)

[右] 1959年オースチン・ヒーレー3000"SMO 744"
エンジン:2912cc、直列6気筒、OHV、SU製2インチ・キャブレター×3基
最高出力:約150bhp/5100rpm 最大トルク:約25.6kgm/3400rpm
変速機:前進4段MT(3速と4速にオーバードライブ)、後輪駆動
ステアリング:カム&レバー
サスペンション(前):ロワーウィッシュボーン、コイルスプリング、
レバーアーム・ダンパー
サスペンション(後):リジッドアクスル、半楕円リーフスプリング、
アジャスタブル・レバーアーム・ダンパー、パナールロッド
ブレーキ:4輪ディスク 車重:1090kg
最高速度:通常193km/h 0-100km/h加速:約12秒(ギア設定による)

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:James Page Photography:Matthew Howell

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