プリンス自動車のインサイドストーリー 第7回│プリンスの営業センス

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スカイラインにおける公式見解と事実の違いについて、ひとつだけ例を挙げておこう。それはスカイラインと名付けたのは誰か、ということ。スカイラインの語り部である桜井さんが、わたしが名付けた、と明言している以上、スカイラインは桜井さんによるネーミングである、というのが公式見解となる。以下は、その公式見解を覆そうとするものではない。どのような法も法であるとしたソクラテスを持ち出すまでもなく、公式見解は、あくまで公式見解として尊重すべきものである。しかも、わたしはスカイライン命名に関して桜井さんが語っている内容がとても好きなのだ。

ただし、事実は異なっている。プリンスが新商品をスカイラインと名付けた昭和31年(1956年)の時点で桜井さんは入社からまだ4年ほどしか経っていない。当時の企業文化では若輩者が商品の名付け親になることはありえない。加えて当時ネーミングの公募を行なったという事実も見当たらない。万一、公募によってネーミング案を募集したとしても、集まった案を参考に最終決定を下すのは経営トップの役割である。

結論からいえば、スカイラインの名付け親は当時プリンスの社長を務めていた團伊能氏。團さんはプリンスの社長でありながら文学にも長じた学者肌の人物。その息子は音楽家で洒脱なエッセイストとしても知られる團伊玖磨氏である。



團社長、スカイラインという名が相当気に入っていたらしく、「スカイラインの歌」を團伊能氏自ら作詞し、息子である團伊球磨氏に曲をつけさせている。この曲は、伊能・伊球磨父子の貴重な共作曲というだけでなく、個別車種のコマーシャルソングのはしりである。後にBUZZのCM曲でブレークすることになるスカイラインだが、その予兆は既にこの時点で現れている。

また、現在、広報試乗会などの拠点としても活用されることのある箱根ハイランドホテルは、元々團家の別荘のひとつ。全くの奇遇だが、初代スカイラインが世に出された1957年に箱根ハイランドホテルとしての営業を開始している。わたしも團家の別邸だった建物がまだ残っていた頃の箱根ハイランドホテルに出かけ、かつて團家に働いていた人から話をきいたことがある。往時を偲びながら箱根ハイランドホテルの庭から眺めた「スカイライン」もまた、格別だったことを、ここに記しておきたい。

文:板谷熊太郎(Kumataro ITAYA)

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