「どれほど『素晴らしい悪魔』になり得るかを思い知らされた」ランボルギーニ・ディアブロ



「プロジェクト132(ディアブロの社内コード)の開発で問題になったのはR&D関連の予算でした。たとえば、私たちがいちばん最初にターゲットとしたのはエンジン出力の引き上げでした。当時、フェラーリにはF40がありましたが、ランボルギーニが最高出力でそれに劣ることは許されません。コストの都合でエンジンブロックとヘッドの鋳造部品は流用としましたが、カウンタック用V12エンジンで変更できる部分にはすべて手を加えました」

「私たちがナルドに持っていった車両の最高出力は492bhpでしたが、ここで私たちは325km/hの速度記録を公式に樹立しました。一般に購入できる量産車として、これは世界最速にあたります。このとき、私たちほど幸せを噛み締めている人はほかにいなかったと思います」

「パリの風洞実験施設を使う際には生命の危険にもさらされました。風洞はトリノにもありましたが、ライバルの目があるので使えません。車両の輸送費を抑えようとする私たちは、前輪駆動のランチア・テーマでトレーラーを牽引し、そこにプロトタイプを積み込みました。ところが、トレーラーが重すぎたせいで、私たちはランチアともども道の外に放り出されてしまいます。なにもかも壊れましたが、プロトタイプだけは奇跡的に無事でした」
 
こうした苦労が報われてディアブロはスマッシュヒットとなり、会社を再び救うこととなった。1994年からはマレーシアの投資家グループであるマイコム・セトコとインドネシアのVパワーコーポレーションが新たなオーナーとなる。このころの様子をマルミローリはこう証言する。

「当初より私たちは派生モデルの開発に取り組んでいました。1992年のジュネーヴショーではロードスター・コンセプトを発表しました。これはワンオフモデルとして製作したディアブロのバルケッタ仕様です。続いて私たちは4WD仕様のVTを開発し、1993年に発売します。当時、私たちにはまだこの種のシステムを用いた経験がなかったため、ヴィスカスカップリングを使った4WDシステムの開発に苦労しました。とにかく基礎の基礎から開発をスタートさせることにしました。私は1990年にデビューしたディアブロのことを誇りに思っていますし、そこから誕生した17 種のモデルやプロトタイプの開発に関わったことにも深い満足を感じています」


価値が認められたディアブロの運命は・・・次回へ続く

オクタン編集部

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