神聖化された3台のアストンマーティン「DP」シリーズの一斉テストでわかった事実

Photography:Matthew Howell Period images courtesy Brian Joscelyne, Neil Corner and Paul Chudecki



2台のプロジェクト214と212(最後の出場となった)は1963年4月のル・マン・テストデイにデビューしたが、215は6月の本番になってようやく姿を見せた。214の戦闘力は総合優勝を狙えるほど高いと考えていたアストンマーティンの作戦は、215をウサギに仕立ててフェラーリ勢を引きずり回そうというものだった。1959年にスターリング・モスがDBR1で演じたレースを再現しようというわけだ。DP215/1はフィル・ヒルとルシアン・ビアンキ、214の0194はビル・キンバリーとジョー・シュレッサー、0195はブルース・マクラーレン/イネス・アイルランド組に委ねられた。

DP212を駆った前年のグレアム・ヒルのように、フィル・ヒル(ポールのフェラーリ330TRと1.1秒差の予選4位)はスタートで先頭に立ち、その後ペースを緩めて4周目には5位で様子をうかがっていた。ところがその2周後、クラッシュしたルネ・ボネの破片を踏んで緊急ピットイン。26周目にビアンキに交代した時には9位に順位を下げていた。そのわずか3周後、まだ3時間も経っていない頃、彼らの作戦は水の泡になってしまった。おそらくはルネ・ボネの事故を避ける時に激しくブレーキをロックさせた影響で、トランスミッションが壊れてしまったのだ。

いっぽう2台のDP214はまず順調に走っていた。0195号車のマクラーレンは28周の時点で総合10位(3リッター超GTクラス1位)、アイルランドは一時6位まで順位を上げたが、再びマクラーレンが運転していた59周目、ミュルサンヌでピストンが破損して万事休す。

ちなみにこのストレートで0195号車は300km/h(186mph)を初めて超えたが、続いてDP215が319.6km/h(198.5mph)を記録した。215の最高速は現在もなお、フロントエンジン車のル・マン最速記録として破られていない。

残る0194号車は快調にラップを重ね、110周目には5位につけていた。さらに2時間後、一台だけのアストンは総合3位に上昇、GTクラストップを守っていた。残念ながらそれは長く続かなかった。139周目、214はチームメイトと同じようにピストンが壊れてリタイアを余儀なくされた。アストンマーティン・ワークスチームによるル・マン挑戦はこれで幕を下ろし、以後26年間にわたって再びサルテ・サーキットに姿を現すことはなかった。

編集翻訳:高平高輝 Transcreation:Koki TAKAHIRA Words:Paul Chudecki 

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