フランスが誇る最高峰の車?!知られざる革新的な1台

PEUGEOT CITROEN JAPON



そのルーツは18 世紀の馬車製造にあり、家族経営で続いてきた。しかし、ルイ・ユーリエが、1922 年にフランス西部セリゼのポワトゥー=シャラント地域圏に新工場設立のために移転したことが、同社に革命をもたらした。
 
シリーズ生産が続き、第二次世界大戦前にはユーリエは大型バスの製造に特化し続けた。戦中の中断後、1947 年にアンリ・ユーリエが流線形、アールデコバス調のシリーズで事業を再開し、1950 年代まで継続した。シトロエンとシムカにアプローチした1962 年までは、ユーリエは自動車の設計や製造を手掛けたことはなかった。セリゼではよい時代が続いた。1970 年代には複数の生産契約を結ぶと同時に、コーチビルダーのコンセプトデザインチームにとっても豊穣の時代だった。
 
SMエスパスのストーリーは、1971年4月に若きデザイナー、イブ・ユーバナードが現れて幕が開く。シトロエン屈指の著名デザインチーフであったロベール・オプロンは、ユーリエがどのプロジェクトで自社に協力できるかを見定めるため、定期的に視察に訪れた。公式には単なる研究開発プログラムの域を超えないものとされていたが、クーペボディでヴェンケルエンジン搭載のシトロエンM35はセリゼで製造されていた。オプロンは、ユーリエの仕事のクオリティとスタイルに感銘を受けた。
 


ある訪問の機会に特に注目したのは、発売されたばかりのSMと、フラッグシップ・テーマの拡大だった。シトロエン自身のスタイリングスタジオは、CX の開発に全精力を傾けていたので、SM のバリエーションは二の次になっていた。そのためオプロンは、ユーリエかシャプロンのどちらかに開発を委託したいと考えていた。コンバーチブル・モデルの開発が最優先であり、ユーバナードはその年の後半に開催されるパリ・サロンでの展示コンセプトを構築するチームの一員だった。ユーリエでは、すでに強靱なTトップルーフ( T バールーフ)を備えたコンバーチブルの設計を終えていたため、エンジニアチームはこれをSMに応用した。一方でユーバナードがスタイリングに専念した。
 
オープンカーにとってTトップはクレバーなアイデアだ。米国で自動車の衝突時の安全対策が強化されたことで、伝統的なコンバーチブルは永久に消滅する危機に晒されていた。

米国では、シボレーが1968 年型コルベットで、Tトップのコンセプトを普及させた。もっともこのアイディアは、かのアメリカの工業デザイン雄、ゴードン・ビューリクが「中央の支柱を介する後部ロールオーバー構造にフロントガラスを接合するシステム」として、1951年に特許を取得していたものだった。
 
ユーリエはこの概念をさらに進める方法を考案した。取り外し可能なタルガパネルを、2 組の電気で作動するウィングパネルに置き換えた。それぞれのウィングは中央の支柱に引き込むために、7分割したアルマイト加工を施したアルミニウム薄板製であった。しかもそれぞれが独立して開くことができた。これにより、窮屈な車内でのパネル格納の問題は一挙に解決した。

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo. ) Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:BE-TWEEN Translation: BE-TWEEN Words: Keith Adams Photography: Paul Harmer

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