2019年の出来事振り返り│VWグループの元最高権力者 その生涯に幕を閉じる

Porsche AG

ポルシェの血を引くVWグループの元最高権力者、フェルディナント・カール・ピエヒが2019年8月25日に82歳で死去した。ピエヒは野心的で独裁的な、誰にも止められないヨーロッパ自動車業界のチンギス・ハンだった。自動車ブランドを次々に飲み込んで一大帝国を築き上げ、私生活では何度も結婚し、多くの子どもをもうけた。
 
フェルディナント・ピエヒの飽くなき活力と野心の裏には、ポルシェに生まれなかったことへの失望がある、とよくいわれる。ポルシェ一族ではあるが、父親はピエヒであるからだ。その人生のほとんどは、従兄弟たちとの確執と競争の日々だった。関係が悪化すると、従兄弟のウォルフガング・ポルシェは、ピエヒを"家名の違う者" と呼んで苛立たせたことも知られている。
 
祖父のフェルディナント・ポルシェ博士には子どもが二人いた。娘のルイーゼと、"フェリー" の名で知られる息子のフェルディナントである。年長のルイーゼはウィーンの弁護士、アントン・ピエヒと1928年に結婚。4人の子どもの3番目が、1937年に生まれたフェルディナント・ピエヒだ。
 
父アントン・ピエヒは、ポルシェ博士の法律顧問兼ビジネスパートナーで、会社の10%の株を所有していた。アントンは1933年に当時活動を禁じられていたオーストリアのナチ党に、1937年にはドイツ・ナチ党に入党。1941年にフォルクスワーゲン工場の責任者となり、1944年に親衛隊に加わった。終戦後、1945年にポルシェ博士と共にフランスで収監されたが、22カ月後に釈放された。
 
1952年にアントンが急死すると、15歳だったフェルディナントは悲嘆に暮れた。辣腕のビジネスウーマンだったルイーゼは、息子を厳しい環境で鍛えるため、スイスのサンモリッツ近郊にある寄宿学校、リツェウム・アルピヌム・ツオーツに送り込んだ。少年時代を祖父のオフィスで過ごしたピエヒにとって、進むべき道はエンジニアのほかになかった。チューリッヒ工科大学で学び、F1エンジンの開発に関する修士論文を書き上げると、1963年4月1日にポルシェに入社する。
 
ピエヒは、ポルシェを前進させる原動力となったが、同時に社内を分裂させる存在でもあった。1960年代後半に対立が深まると、ついにフェリー・ポルシェは、ポルシェであろうとピエヒであろうと、一族の者は会社の日常的な経営に関与してはならないと決め、経営責任者を外部から招聘した。
 
その結果、ピエヒは1972年に技術部門トップとしてアウディに移り、最高経営責任者にまで上りつめた。そして、保守的だったアウディのイメージを変え、ハイテクを誇る高級スポーティー・ブランドという現在のイメージを作り上げた。
 
1993年にフォルクスワーゲン・グループの最高経営責任者に就任。経営難に直面していた会社を死の淵から救い、トヨタと並び立つ世界最大の自動車メーカーに成長させる。
 
成功によって独裁的態勢をさらに強めたピエヒは、名門メーカーを次々に買収していった。ベントレー、ブガッティ、セアト、シュコダ、ランボルギーニなどに続いて、ついには物議を醸す形でポルシェをも傘下に収める(一時は逆にポルシェの持ち株会社がVWの経営権を握っていた)。ピエヒは子会社を増やしただけではない。4人の女性(結婚したのは3人)との間に13人もの子どもがいる。
 
ライバル企業もメディアもピエヒへの称賛を惜しまない。しかし、その業績を高く評価する一方で、人間ピエヒとは距離を置く者が多かった。ドイツの『シュピーゲル』誌は、ある社員の言葉を借りて、VWは「強制収容所のない北朝鮮」だと伝えたこともある。

Words:Delwyn Mallett Photography:Alamy and Porsche 編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo. ) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA

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